夏が来ると思い出すシリーズ
玉音放送が流れても帰れることのなかった南の島に、何度かの夏が過ぎた後、米軍の軍服を着けたリュウ爺は帰ってきた。幼い孫のリュウ坊を連れて
よくわからないまでの弾に抉られた跡、ボロボロの門。旧琉球大学のあった近くで、呆然と車を降りたという。どこをどう動いたのか、カデナの飛行場から、良くわからないままに記憶のままに彷徨ったそうな。
「ッ・・・」
崩れるように。滂沱の流れが滝のように目から溢れ、何も見えんかったそうな。米軍の軍服を着けて、欧州の地で激戦に激戦を重ねて、数千人はいた仲間たちも、殆どは帰らぬひととなり、識別票すら回収できない仲間も多かったそうな。収容所のねぇねぇにも、おばぁにも言えることもなく、ただひたすら闘い続けた歳月がようように終わった・・・されど・・・闘いの傷跡は、消えることは無い。
「お爺ぃ・・・」まだ幼いリュウ坊が心配そうにリュウ爺の肩に手を当てる。そんな夏のひと時があったこと・・・今は昔の物語・・・
<リュウ爺ぃの夏>http://sugc.cocolog-nifty.com/nari/2009/07/by-unknown_jnar.html
私が人に話すとき、夏には、講談が合間に流れます。人の生と死を、未来につなげるために・・・個人的なデス・コミュニケーションの想いを伝えるお話です。フィクションと言えばフィクションですが、当時の状況は、それほどに苛烈であったこともまた事実です。
Ogami流、「戦後に生まれのデス・コミュニケーション ノベル」
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デス・コミュニケーションで偉く検索されているから何事かと思ったのですが、ランディ・パウシュ先生の「最後の授業」とかではなくて、金田まりおさんの「Death/こみゅにけーしょん」のことらしい・・・
投稿: ogami | 2009年8月10日 (月) 16時21分