2016年5月21日 (土)

<天主教という流れの中で>

 「魔女とキリスト教」という本がある。上山安敏氏の著書である。
 天主教という流れの中で、聖母マリアがどのような意味合いを持っていて、結果として何故魔女裁判が起きていったのかということが描かれています。ローマ、ケルトやゲルマンといった民族が持つ、様々な祭日が、本来の意味合いと異なる形で、天主教の聖日として組み込まれていった。これは、一神教の流れとして良く起きる事柄ではあるのだろう。
 筆者は、アマゾネスが築き、アルテミス信仰が支配したエフェソスは、ローマ帝国時代に最盛期を迎えたとも言われる。ここに、天主教が持つ矛盾の原型があるとしている。
 これは、史実の日本でも起きているが、母権と父権の確執というのは、洋の東西に関係なく生じるようである。キリストの母が、エフェソスで晩年を過ごしたというのは、天主教にとっての母権から父権への移行とパウロとヨハネの確執が、この流れの中で生じているということになるようである。つまりは、母権を擁護したヨハネと、父権を絶対視したパウロとの確執ということである。
 ローマ帝国の変遷が、ギリシャ神話とローマ神話の融合に始まり、帝国の拡大と共に宗教の坩堝となり、整理統合の中でキリスト教と結びついて行く。これは、東洋で儒教が法家との流れの中で、変化していったような形がギリシャ・
ローマで起きている。つまりは、洋の東西で、性というものを否定したということになる。結果的に、神々の否定と、寺への取り込みが彼の国では起き、南蛮では、魔女狩りとなって荒れ狂ったということになる。

 法律が、浸透することで影響を受けることは、情実の否定である。いかなる世界であっても堅固に法を規定していくためには、情実を否定していかなければならない。法というものが、堅固になればなるほどに、情実は否定されていくのである。マリアを処女受胎とするのは、性行為の否定であり、救世主を神の子とすることで、母子を否定する結果となる。現実の天主教は、今、ここで描かれている事柄そのものを否定するだろう。だから、これは、史実ではないとしなければならないのである。
 史実とは、いかなる時間軸上で立っていても、客観化できるようなものではない。
 いかに、法が情を否定しても、情は存在し実在する。その矛盾を、否定していくことで、矛盾が蓄積し、最終的には崩壊する。日本でも基本的には、同じ流れであったように思う。法が情を否定する中で、様々な先住民を結果的には滅ぼしていく流れとなっていくのである。

 宵闇の中で、新たな|渡辺綱《わたなべのつな》という象《かたち》を築いたのは、法と情をいかに共棲させるかという命題を解いてみたいと思ったからである。矛盾が、蓄積し、崩壊し、結果として様々な形で南蛮を形成してしまった。形成された南蛮と同様に融合と構築の中で組み込まれた彼の国と、いかな流れを組み込むことになるのかを考えていこうと試みるものである。

 平安と呼ばれる時期から、戦国と呼ばれる時期に至るまで、法と情が共棲する世界では、地力の拡大が進むことと規定した。これは、中央集権が、地方分権へ移行するという形である。
「一天万乗の大君が下」ということは、一天以外に従うことは無いという意味となる。この状況下では、地方権力が万民の収奪に動けば、万民は叛くこととなる。史実の戦国期に信長と権力抗争を展開したのは、一向宗であったと言える。一向宗があるからこそ、南蛮との妥協を必要とし、一向宗が消えた後の秀吉が南蛮追放とするのは、権力に従わない存在を潰すことであり、その存在の中には、一天そのものが含まれていくこととなる。
 秀吉が、晩年で矛盾となるのは、自らが一天万乗の大君が下で権力を握りながら、一天万乗の大君を否定しなければならなくなることであったように思う。秀吉後に政権に着いた家康は、一天万乗の大君が下で、軍の大権を握り、軍・政と祭を分け、形式上は祭を上として、二天万乗を生み出したと言える。
 法を法として機能させると、矛盾が生じ崩壊する。これは、白と黒を完全に分離し判断することはできないことを意味している。放射線が、人体にとって危険であるかどうかは決定として判断できないが、大量の放射線は危険であると判断できる。しかしながら、その閾値は確率によって規定されるもので、論理的に規定することはできない。これが矛盾である。どのような値以下であっても、それこそ、太陽光線を受けても皮膚がんが生じるとすれば、太陽光線すら危険と言う判断がされてしまう。様々な人がおこなっている、現行の紫外線対策は、かなり行き過ぎている側面があるように思うが、
それはそれぞれの人が持つ判断基準に基づくものであり、統一的な判断ができるようなものではない。

 つまりは、国家体系そのものを維持しようとした場合、秩序は、矛盾を抱えるゴミのような存在でありながら、維持するために必須の存在ということになる。情は、混沌の塊であり、法に叛逆するクズのような存在でありながら、国家を形成存在させるために必須の存在である。
 国家体系の維持は、法と情の共棲をいかに上手く調整することだと考えています。

 政治における秩序と混沌は、ゲーデルの「不完全制定理」を基礎的な演算基準としています。

2016年1月25日 (月)

ラノベ読者考  Ittoh改訂版

 芥川龍之介によれば、小説の読者というものは、小説の筋を想定して読んでいるらしい。小説をラノベとすると、筋はテンプレということになるのかな。
 となれば、Webラノベの読者であれば、|筋を想定《テンプレ》していることをとか読んでいることになるのだろうか?テンプレが、気に入るかどうかは、それぞれの読者によって変わるところなのだろうが、筋がテンプレ過ぎても、テンプレから外れても今一つなのかもしれない。
 データでテンプレと非テンプレの調査をされた方がおられるが、なかなかに面白い結果であった。読者というのは、テンプレを望んでいるのだなぁというのが、数字で出てきているのは面白い。
 転異チートものの場合は、転移した異世界の在り様に共感できるかどうかとか、チートに自分自身では有り得ない憧憬を、なぜか異世界なら有りにできるようなところが、良いのかもしれない。
 苦しい生活しながら、異世界では金持ちな生活をするとか、いじめっ子が異世界無双してたりとかは、現実世界との乖離が、魅力といったところになるのだろうか。似たような世界で、似たような境遇というのは、微妙な感じもするので、何かが欲しいと求める想いが、小説に求められているのだろう。
 戦国チートやWWⅡチートのようなタイムスリップものは、昔のようなタイムパラドックスを気にすることなく、パラレルワールドに展開されているような感じである。そういった意味では、歴史転生も異界転生とそれほど大きく変わるものではない。

 確かに、個人的に気に入っているのは、テンプレが多いし、あんまり外れるのも、なんだかなぁという感じになるのも確かだと思う。つまりは、テンプレというのは、悪いものではないということだ。

 歴史ifにしても異世界転生にしても、昔から、それなりに描かれているから、新たな小説ジャンルというほどではないと思うが、日本という国は、表現等は厳しいけれど、許容範囲の広いことから、様々なネタが許容される世界なのだろう。

 Ittoh流読書綺談「小説の読者」芥川龍之介

2016年1月24日 (日)

四国中央市「紙の町資料館」に行きました

 先日、四国中央市にある「紙の町資料館」に行ってきました。ここには、風船爆弾の資料が、展示されています。
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 風船爆弾は、和紙にこんにゃくを組み入れて造っていたそうです。だから、当時、紙の生産地であった四国中央市に工場があったそうです。風船のモデルと、展示品としては、使われていた和紙と、こんにゃくチップが展示されています。
 実機の風船部分は、スミソニアン博物館に保管され、制御部分は、アメリカの国立航空宇宙博物館に保管されているそうである。
<youtube動画データ>
https://youtu.be/DJFOTRr77rg
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 ふ号爆弾は、登戸にあった第九陸軍研究所だそうです。日本上空を西から東に向かって吹く、"ジェット気流"に爆弾を乗せて、アメリカ大陸を攻撃するという超遠距離攻撃兵器です。実際に第二次世界大戦中に開発され実戦で使用された唯一の大陸間攻撃兵器となります。
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2015年11月 9日 (月)

「言の葉」は、徒然なるままに

 ライトノベルとかで、異世界転生とかした場合に、言葉が不自由になるとコミュニケーションが取れないので、様々な技法を擁して、コミュニケーションを取れるようにするというのが、現実との調整となっている。言の葉や言魂という形で、相手に伝わるように考えたり、赤ん坊に転生することで、言葉を覚えたような感じで描かれているのが一般的である。SFなんかだと、自動翻訳という形になっている。最近のスマートフォンだと、音声をかなり綺麗に認識できるようになってきているので、もう少しで実現できるかなぁという感じもしている。個人的には、発音チェックなんかに音声認識を使っている。
 言語というのは、本来的には「意味が象徴するモノ(The Meaning of Meaning)」を表現するモノである。赤い丸っぽいモノに、茎っぽいモノに葉っぱっぽいモノを付けて、絵を描くと、「象徴するモノ」を視覚として表現することとなる。これが、"「りんご」に見えたり「Apple」に見えたり"するというのは、見る側の主観からくるモノであって、「りんご」や「Apple」という言葉そのものに意味があるわけではない。

   りんご→<象徴するモノ>←Apple
  知恵の実→↑      ↑←ニュートン

 ここで、「知恵の実」や「ニュートン」という"言の葉"を入れた。
 これは、象徴するイメージが持っているモノを表現する部分にある。「知恵の実」は、食べてはいけない"知恵の実"をアダムとイブが食べたというイメージに使われたところから、"知恵の実=Apple"というイメージが"伝聞(真実かどうかは別)"として伝わったものである。また、「リンゴが落ちる」のを見て、万有引力を発見したという有名な"伝聞(真実であるかどうかは別)"があって、そのイメージから連想される対象として出た言葉である。
 「言の葉」というモノは、一旦、伝わることで拡散し、ある程度以上の範囲で拡散してしまうと、真実であるかどうかは別として、イメージそのものは定着してしまう。バレンタインという言葉が、「女の子からチョコが貰える日」と認識するも、「地獄の日」と認識するのも、受け取る側の問題であって、バレンタインという言葉そのものが、対象となる意味を持っているわけではない。

 「言の葉」というのは、非常に多くの意味合いを放つことがある。「バンッ」という擬音表現から、拳銃が発射されるイメージを具現化するというのも出てくる。柄しか無い剣で、相手を斬り裂くと、イメージそのままに斬られたのと同じようなダメージが入るというのも、演技による対象者の認識によって生じる現象ということになる。
 最近は、「イケメン」とか「美形」という表現で、終わっちゃうところが多く、そこから先は、それぞれのイメージでということになる。「腰まで届く黒髪を、艶やかになびかせて、細身のしなやかな姿は・・・」といった描写が続くようなことは少ない。単語が持つイメージで、表現を修了させるということになる。
 個人的には、言い回しに誤解が生じることを恐れるあまり、冗長な表現仕様となる側面がある。情景が、ぶった切って終了で良くても、「左肩から右わき腹にかけて、刃筋を通すように斬り抜けば、血飛沫が乱れ踊るように舞いあがる」と表現してしまうようなものである。確かに、そんな表現は要らないのかもしれない。

 ただ、こういった表現は、読み手が「イケメン」という「言の葉」が持つイメージと、書き手が「イケメン」という「言の葉」が持つイメージに違いがあっても気にしないという前提が無ければならない。「イケメン」というイメージが持つ「言の葉」にどのような意味をイメージするのだろうかというのが、気になってしまうような作者には、なかなかに向いていない。逆に短く表現しようとすると、描かなくなるということになる。しかしながら、必要なことまで描かなくなるというダメージを受けるのもまた困ったものなのである。

 出来る限り、誰にでも理解できるように、読みやすくというのは、誰にとっても読み難い文章と同じになってしまうものなのだろう。誰に(対象)とってを明確化できないと、なかなかに難しいということになる。

2014年12月 6日 (土)

コンテンツの在り様

 これは、ワーグナーの言うところの「総合芸術」に対する、個人的な判断基準である。
 書くとするところを、描くと記すようになって何年になるかわからない。
 最初に感じたのは、俵万智さんの「サラダ記念日」のレイアウトであったように思う。内容ではなく、レイアウトに驚いたのだ。詩というコンテンツをこうも見事に描いたというのが面白かったのである。
 書くというのは、"言葉"や"文章"に対するもので、その本質を捉えた「コンテンツ」に対するものではない。これが、コンテンツを文章として描くと表現することに繋がった。「描くこと」というのは、絵画のようにコンテンツを文章を使って描くことでもあり、そこに数式や計算があれば、式が、その情景が絵であれば絵を、動画であれば動画を実装することで、全体として「コンテンツ」を完成させる。
 一人の人間ではなく、複数の人間や複数のメディアに展開されるのも、「コンテンツ」のこれからの在り様を示していると判断している。

芸術の最高形式は、FARCEであるか?

 これは、坂口安吾さんの作品、「風博士」や「FARCEに就て」のIttoh流読書綺談である。
 彼自身は、「風博士」などの作品で、世に出た方である。富田輪生さんや意志を継がれた方々に敬意を表し、”青空文庫”の作品で読んでみた。坂口安吾さんの作品は、ほかの方々と似たようであるが、「信長」や「堕落論」から読み始めた者である。
 個人的な意見としては、ワーグナーの描こうとした「総合芸術」の方が好きである。
 だからといって、FARCEの重要性を低く見ることではない。FARCEは、笑劇という呼び方をするとWikiには描かれていた。日本人の感覚からすれば、「能」に対する「狂言」のような感覚であろうか。今の日本人だと、シリアスに対するコメディという対比になるのだろうか。
 FARCEは、道化が重要な要素としてとらえられている。これは、過去にせよ、未来にせよ、たとえ異世界であっても、その世界に従属するかしないかという対比だと判断している。おそらくは、世界の在り様に従う側の人間と、従わない側の人間という対比が、様々な話の展開を創りあげていくからと判断している。
 最近の"異世界モノ"は、存在そのものが異質な主人公を、異世界という世界への対比としておくことで、ストーリーを創り上げているようだ。そういった意味では、"異世界モノ"という作品群は、今の時代で描かれるFARCEということになる。

2014年12月 1日 (月)

高倉健、菅原文太さんのご冥福をお祈りいたします

 非常に残念なことです。映画というメディアで、凄い方という俳優さんが相次いで亡くなられてしまいました。個人的には、小池朝雄さんや森繁久弥さんを含め、素晴らしい憧れが少しづつ消えていくような想い、残念な想いで一杯です。
 こんな大人になりたかった。という方が、今の子供達にも居るのでしょうか?
 年齢的には、長く現役で活躍された方々ですから、「ごゆっくりお休み下さい」と言うべきかも知れませんが、なんか本当に穴が空いてしまったような感じがします。昭和という時代が、本当に遠くなっていくようなそんな感じです。
 私自身、昭和生まれで、高度成長だの、オイルショックだの、バブルだのの中で、生きてきましたけど、同じ時代の先輩を感じられる方を失うと、あぁ、そろそろ俺の番かな?という想いに捉われるようになります。「俺は、戦える、行ける」と思う中の先に、「まだ戦える、まだ行ける」という“まだ”という言葉が付くようになってきたということもあります。
 人間人生五十年を迎える年の瀬です。「人間人生百五十年」と言い切れば、まだ1/3しか生きておらず、これからの時代にも働きかけていければなぁと感じています。

2014年11月30日 (日)

Webラノベの読者

 芥川龍之介によれば、小説の読者というものは、小説の筋を読んでいるらしい。
 Webラノベの読者であれば、筋を想定していることを(テンプレ)とか読んでいることになるのだろうか?テンプレが、気に入るかどうかは、それぞれの読者によって変わるところなのだろうが、筋がテンプレ過ぎても、テンプレから外れても今一つなのかもしれない。
 転異チートものの場合は、転移した異世界の在り様に共感できるかどうかとか、チートに自分自身では有り得ない憧憬を、なぜか異世界なら有りにできるようなところが、良いのかもしれない。
 苦しい生活しながら、異世界では金持ちな生活をするとか、いじめっ子が異世界無双してたりとかは、現実世界との乖離が、魅力といったところになるのだろうか。似たような世界で、似たような境遇というのは、微妙な感じもするので、何かが欲しいと求める想いが、小説に求められているのだろう。
 なんだかんだ、個人的に気に入っているのは、テンプレだし、あんまし外れるのもなんだかなぁという感じがする。つまりは、悪いものではないということになる。歴史転生あたりは、有名人については一般歴史if系で量産されているから、Webラノベは、ちょっと変わった異世界モノとなっている。雨月物語の岡佐内と子孫による異世界チートとか、豊臣秀次の知識チートなんかは、Webラノベとかでないと、描けない感じの作品だろうねぇ。

 Ittoh流読書綺談「小説の読者」芥川龍之介

2014年11月27日 (木)

平和であることと戦争

 現在および近未来における戦争の発生は、政治経済の後ろ向きな状況で発生する戦争だと言える。戦争は、経済的に儲けにはならず、損失にしかならない。このことは、おそらくはすべての国で認識されているだろうとは思う。
 平和であることは、戦争が無いということであるが、争いが無いという事では無い。安全が保障されて始めて、政治経済の発展が望めるものなのである。働く人にとっても同じである。平和であって始めて、安心して働けるのであって、実弾が飛び交ったり、爆弾が投げ込まれるような世界で安心して働けるという事ではない。
 なかなかに難しいのは、平和の実現方法である。周囲が平和である方が、経済的に活性化するというのが昨今の世界情勢のハズであるが、自国より他国が儲かることを、許容できる国というのは少ないものである。
 自分が儲かっていないから、自国民が他国の国境を侵犯しても、何故見て見ぬふりをしないのかというような話まで出てしまう。これが、国が持つ欲望というものである。こういった欲望は、時に暴発することがある。このために、国として戦いの意志が無くても、戦争が起きることがある。これは、事実である。
 結果として、いかなる国であろうと、戦争に対応した準備をせざるを得ないものである。
 話し合いで解決できるというのは、あくまでも理想でしかない。国益が関わることで、話し合いで解決できるのは、あくまでもお互いの国益を尊重しても儲かるという状況でのみ可能なのである。
 戦争は、関係各国にとって損しか生じない経済活動となる。しかしながら、相手が自国より損をするという目的や宗教上の理由だと、戦争を始める理由が生まれてしまう。ここらへんが、現代における戦争が持つやるせなさと言うか、納得がいかない理由となる。
 現在および近未来の戦争は、後ろ向きな状況で発生する戦争だと言える。政治経済が後ろ向きにならなければ、戦争の生じる可能性は減じる。はてさて、日本と言う国はどうかな?

2014年3月18日 (火)

ゲームって?

 日本の辞典とかだと、「勝敗を争う遊びや遊戯、試合や競技、ゲームセットの略」という風に描かれている。英文だと、"A game is an activity or sport in which people compete with each other according to agreed rules"となっている。個人的には、英文で描かれている方がしっくりくる。
 ゲームとは、「参加者が、合意したルールに従って、競技をおこなう活動やスポーツを示す」ということです。最近の流れとしては、参加者には、プレイヤだけではなく、サポーターや観客、会場提供者など、様々なステークホルダーが加わるっていくと考えられます。
 ゲームは、ロボットやインターネットのように、定義し難い言葉だと思います。
 重要なことは、Stakeholderが、同意したルールの下でおこなわれるという点だと考えています。ルールがあるかないかが、ゲームと遊びの境界になるのあかなぁと思ったりもしています。

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