書くから描くへ その1
夏も終わりに近づいて、読書感想文とかを書いたりしている方が多い時期ではないかと思う今日この頃、皆様はいかがお過ごしでしょうか、Nariです。俺自身が天邪鬼だったこともあって、小学生とかの当時、本を読んでいる冊数は、何冊もあったのだけれど、感想文を書く気にはなれなかったという思いがあります。
これは、感想文という文章なのが嫌だったというのこともあります。あんまし、このような作品を描いていて、怒られそうではありますが、ちょっと思いの表現方法については様々な形態があるのだと考えて欲しいのです。
百科事典に書いてあることから、麻雀を始めたり、水の電気分解を乾電池でできなくて、家庭用電源でやって火傷したり、結果から釘のオブジェができたり、テレビドラマの刀鍛冶を見ていて、五寸釘を叩いて研いで、非常に良く切れる刃を造ったりも、感想文なのだと感じています。
かつて、タタキツクルコトや榊原精機さんのページを観て、同じ思いの人が多いのだと感じたのも事実です。アニメを見て、自分で造りたいという思いで1/1ATを造った人も、人を乗せて動くランドウォーカーを造った事も、感想文なんだと。ジャングル大帝を見て、ライオンキングを造ったこともまた感想文なのだと。ガイスターから天空盤を造る事も、感想文であるのならば、個人的には許せる話なのです。許せない人も多いようですけど・・・
作品が持っている力は、コンテンツが持つ力である。
コンテンツを創り上げた人への感謝、そしてビジネスとしての良心が折り合うかどうかが問題になることはあっても、それを関係していない人が、とやかく言うことは無いのだと思います。俺自身が、描く文章が完全にオリジナルですか?と聞かれたときにオリジナルであると断言することはできません。
言葉がわかる以前から本を読んでましたと言う人間にとって、いままで触れた作品や映像といった様々な経験の全てから今の描き方をするようになったのは事実です。コンテンツのコピーが許せないのは、それ自身が法的に可能であったとしても、良心の折り合いがつくのかどうかの問題なのです。逆に言えば、良心を悪魔に叩き売れば、別段に気にすることは無いお話ともなります。困ったことに、コンテンツの本質をコピーすることは、法的に問題が生じるようなことはおそらくは無いだろうと考えています。本質をコピーすることが問題となるのであれば、世の技術書は、ほとんど販売できないことになりますし、文学や映画やドラマの大半も厳しい状況に追い込まれることになります。聖書やギリシャ神話に関する作品群や、三国志や水滸伝、シェイクスピアやら芥川龍之介、宮澤賢治といった方々の作品との出会い、999やガンダム、ナウシカとの出会いもまた、ひとつの作品を創るための経験であるのであれば、本質のコピーはそこらかしこに散りばめられていると考える方が自然なのです。
それをすべて”1”か”0”で判断することはできません。閾値の設定は、法的にはある程度可能であっても、その設定で納得できるかどうかは別問題になります。それは、個人個人の良心の閾値の設定に関する問題となります。






Recent Comments